※ここで紹介する物語の解釈は、あくまで個人的な見解です。こんな考え方もあるのか!という風にお楽しみください。
モーツァルト作曲『ドン・ジョヴァンニ』。前回は、その結末の意味を、功利主義の観点から考察しました。ひとりの男の死が、人々に幸福をもたらす。この結末は私たちに、「幸福とは何か」という深刻な問いを投げかけてきます。そこで、私たちはもう少しだけ、『ドン・ジョヴァンニ』に取り組みたいと思います。ドン・ジョヴァンニの死、あの「地獄落ち」をどう理解すればよいのか。それは、私たちが置かれている時代の状況と、大きく関係しています。時代が違えば、考えることも違いますし、生き方も違います。そして、あの結末の意味もまた、変わってくるのです。今回は、フランスの哲学者リオタールが提示した、「ポスト・モダン」という概念から、考察を進めます。そして、新しい「ドン・ジョヴァンニ像」を明らかにすることで、この物語が持つ現代的な意義を見いだしたいと思います。
1.モーツァルト作品と封建社会
モーツァルトが生きた頃以降の時代は、一般に「近代(モダン)」と呼ばれます。それまでの封建制社会から脱却し、キリスト教や啓蒙主義思想によって、個人の自由と解放が歌われるようになります。後で見ることになりますが、「ポスト・モダン」という思想は、「近代(モダン)の後(ポスト)」という名前の通り、近代という時代区分を基準にして、近代の次に来た時代の様子を表現したものです。そこから考えれば、モーツァルトの時代は、まだ封建制が残っていますから、これから近代に突入する、解放の時代への期待と緊張感とを含んでいるとも言えるでしょう。
モーツァルト三部作には、明確な仕方で、封建制社会の様子が描かれています。そして、貴族と平民との関係性は対立構造をもたらし、物語を展開させてゆきます。注目すべきは、貴族制に対する風刺と、人間の自由な意志の尊重でしょう。『フィガロの結婚』では、スザンナと結婚するために、フィガロが伯爵を出し抜こうと画策しますし、『コジ・ファン・トゥッテ』では、姉妹たちが許嫁ではない、自由な恋愛へと向かっていく様子が描かれています。そして、『ドン・ジョヴァンニ』でも、「地獄落ち」という、いささか大がかりな事態を通してではありますが、結果として人々は自由を獲得します。これらの作品はみな、人間が自由を求めることによって、物語が展開されてゆくのです。自由であるということは、ある個人が、束縛されず、その人らしく生きることができるということです。従って、個人性の獲得、いわばその人の「固有名の獲得」が、作品のテーマとなっていると言えます。
2.「地獄落ち」がもたらしたもの
さて、『ドン・ジョヴァンニ』でひと際印象的なシーンが、「地獄落ち」です。物語冒頭、ドンナ・アンナの寝込みを襲い、駆けつけた彼女の父親を剣で殺してしまったドン・ジョヴァンニ。しかし、殺したはずの騎士長は、石造としてよみがえり、ドン・ジョヴァンニを地獄へといざないます。「地獄落ち」に焦点を当てたいのは、それが後に人々にもたらした結末が重要だからです。オペラのフィナーレにおいて、それぞれの登場人物の行く末が示されます。ドンナ・アンナとドン・オッターヴィオは、壊されてしまった心の平安を回復させようと希望を抱きます。ドンナ・エルヴィーラは、もう男性を求めるのではなく、修道生活へと入ります。ヅェルリーナとマゼットは、またかつての牧歌的な結婚生活に戻ってゆきます。そしてレポレッロは、ひどい主人から解放され、より良い主人を探しはじめます。それぞれが、自分らしく生きる道を発見したのです。それは「個有名の獲得」を意味しています。
「地獄落ち」というキリスト教的な裁きは、あの忌まわしい封建制の象徴を破壊することで、登場人物たちに自由をもたらしたました。このように、近代においては、キリスト教による自由が歌われました。キリスト教は、封建制によって抑圧された個人を解放するというのです。そこから大胆に解釈すれば、フィナーレで与えられた抑圧からの解放は、来るべき希望、つまり「天における救いの実現」のメタファーとして読むことも可能だと思います。まさに、「地獄落ち」を通して、人々は「固有名の獲得」という救いを手にすることになりました。ここに近代が持っていた理想が表されています。それゆえ、私たちは、近代を「個有名の獲得」の時代であると呼ぶことにしましょう。
3.「ポストモダン」と固有名
しかし、近代が持っていた理想は、その後、どうやらうまくゆかないということが明らかになりました。私たちが生きている現代の世界は、大きな戦争による惨禍や、資本主義的競争の暴走によって、次第に、人間がもつ解放の意味を失ってゆきました。もはや「近代」が掲げた「個有名の獲得」という理想は失われ、個人は、都市という単なる集合体に溶け込んでしまうことになったのです。キリスト教主義もまた、世界的な宗教的多様性のもとでは、一つの国家を支えるだけの指導的地位を持つことはできなくなりました。こうして「近代」は崩壊し、終わりを迎えたのです。
フランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタール(1924-1998)は、この近代の崩壊を「大きな物語の死」であると指摘しました。近代においてキリスト教や啓蒙主義が持っていた「個有名の獲得」という理想を、リオタールは「大きな物語」と呼びました。そして、いまやこの「大きな物語」は死に、「ポスト・モダン」の時代に突入したと宣言したのです。ポスト・モダンでは、かつて近代が持っていた理想は失われ、各人の個有名は隠されたまま、つまり「匿名」の状態に陥っていると言えます。ここに、「個有名の喪失」が起こってしまいました。
4.個有名を取り戻す
事態は一変してしまいました。「モダン」と「ポスト・モダン」では、意味していることが反対となるからです。私たちは近代を、「個有名の獲得」の時代と呼びました。しかし、リオタールの指摘からわかることは、ポスト・モダンがいわば「個有名の喪失」の時代だということです。そのことから、私たちがポスト・モダンの視点から眺めるならば、『ドン・ジョヴァンニ』の物語もまた、まったく反対の事態を意味することになります。
かつての近代主義的理想においては、『ドン・ジョヴァン』は、封建制を打ち破り、個有名を獲得する物語として解釈できます。そのことは、騎士長のセリフにも表れています。石像としてよみがえった騎士長はドン・ジョヴァンニに詰め寄ります。
悔い改めよ、生き方を変えよ、最後の機会である!
騎士長は、はじめからドン・ジョヴァンニを地獄に連れ去ろうとしていたわけではありません。実は騎士長は、ドン・ジョヴァンニに悔い改めを迫っているのです。罪の悔い改めは、キリスト教においては、救いへの立ち返りを意味しています。従って、近代的な理想においては、騎士長の目的は、救済への呼びかけ、「個有名の獲得」への呼びかけなのです。しかしドン・ジョヴァンニは、悔い改めることを拒否します。ドン・ジョヴァンニは個人の救済を否定することで、近代的価値への抵抗を試みます。なぜなら、近代的価値は、かの封建制を打ち破り、束縛からの自由をもたらすために、かえってドン・ジョヴァンニ自身の封建制という基盤を崩してしまうからです。結果、ドン・ジョヴァンニはキリスト教という近代的理想の象徴に敗北し、人々には解放がもたらされました。
それでは、ポスト・モダンの立場からこの物語を読むとどうでしょうか。ポスト・モダンにおいては、かつての近代的救済観は失敗に終わってしまいます。そのため、あの騎士長の悔い改めへの呼びかけもまた、まったく無意味なものとして響きます。無意味な呼びかけに従ったところで、何かの意味を獲得することはできません。そして意味を獲得できないということは、いまだ「個有名の喪失」の状態にあるということです。しかし、なんとドン・ジョヴァンニはこの無意味な呼びかけへの抵抗を試みるのです。ドン・ジョヴァンニの抵抗は、ポスト・モダンにおいては「個有名の喪失」への抵抗を意味します。そのことから、ドン・ジョヴァンニの行動原理が、「個有名の獲得」として浮かび上がってくるのです。ここに、かつての近代主義的解釈とはまったく逆転した、新しい「ドン・ジョヴァンニ像」が出現します。ポスト・モダン的ドン・ジョヴァンニは、個有名を喪失した時代においてただ一人、個有名を取り戻すことを試みた人物として描くことができるのです。
5.ポスト・モダンに生きる
近代的ドン・ジョヴァンニは、キリスト教の救済を拒否し、個有名を喪失しました。しかし、ポスト・モダン的ドン・ジョヴァンニは、あの救済への無意味な呼びかけに抗うことで、かえって個有名の獲得を試みたのです。そうであるならば、「地獄落ち」が登場人物にもたらした意味もまた、逆転することになるはずです。つまり、ポスト・モダンにおいては、人々は個有名を回復したのではありません。人々は、ドン・ジョヴァンニという「個有名の獲得」を試みた人間を黙殺し、個有名の喪失した世界に生き続けることを選んだのです。ドン・ジョヴァンニという人物の倫理的な問題点はいまだ残ることでしょう。しかしポスト・モダンという相対化の時代にあっては、倫理的な問題はドン・ジョヴァンニだけにあるのではないこともまた、受け止めなければなりません。私たちは絶えず選択を迫られます。この現代にあって、「個有名の喪失」に溶け込んでゆくのか、それとも、「個有名の獲得」を試みるのか。そこにはまだ、大きくはないかもしれない、しかし、「物語」には違いないものの可能性が残されています。そして、問いの答えは、騎士長の誘いを拒むドン・ジョヴァンニの、あの毅然とした態度に表れているのかもしれません。
参考文献:
モーツァルト、『ドン・ジョヴァンニ』、小瀬村幸子訳、オペラ対訳ライブラリー(音楽之友社、2003年)。
貫成人、『図解雑学 哲学』(ナツメ社、2020年)。