※ここで紹介する物語の解釈は、あくまで個人的な見解です。こんな考え方もあるのか!という風にお楽しみください。
今回も引き続き、モーツァルト作曲『ドン・ジョヴァンニ』を扱います。傑作と名高いこのオペラ、音楽のすばらしさはもちろん、魅力的な登場人物も見どころの一つです。物語を押し進めるのは、なんといっても主人公ドン・ジョヴァンニです。騎士でありながら、すぐ女性に手をだしては裏切っていく卑劣さは、目に余るものがあります。でもそんなドン・ジョヴァンニ、その行動には、実はおもしろい思想は隠れています。人間の幸福とはいったい何であるか。今回は「功利主義」の立場から考えます。
1.ドン・ジョヴァンニの行動原理
行く先々で、女性を口説き落として来たドン・ジョヴァンニ。作中で分かっているだけでも、ドンナ・アンナの寝込みを襲い(さらには、彼女の父親を殺し!)、ドンナ・エルヴィーラを捨て、農夫マゼットの新婚の妻ヅェルリーナを、あろうことか結婚式の日に誘惑します。そんなドン・ジョヴァンニ、見るからにただの最低な男ですが、彼には彼なりの行動原理があるようです。
ドン・ジョヴァンニは、従者レポレッロに、自分の女性への扱いの理由を告げています。こんな感じです。
すべて愛情だ。/ひとりだけに忠実な者は/他の女たちに対して酷い、/わたしはというと、身のうちに感じるもので、/これほどに広い思いを、/それですべて誰もかも愛するのだ、/ところがそういう算定できぬ女ども/わたしの善良なる気質を騙(ペテン)と呼ぶ。
ずいぶんひどい言い訳ですね。誰かひとりを愛していたら、他の人を愛することはできない…。だからって、明らかにドン・ジョヴァンニのしていることは、ただの放蕩の限りなのですが、彼にとってはそれも「善良なる気質」のなせるわざなのだそうです。
しかし、ここに注目すべき考えが隠れています。それは、「ひとりだけに忠実な者は/他の女たちに対して酷い」というものです。実はこの考え方、「功利主義」と呼ばれる思想とすごく似ているのです。すこし考察してみましょう。
2.功利主義と幸福
功利主義はイギリスにおいて、ジェレミー・ベンサム(1748-1832)、ジョン・スチュワート・ミル(1806-1873)らによって唱えられた社会思想です。功利主義はいったいどのようなものでしょうか。それは端的に言えば、人間の幸福は、社会全体の多くの人間が幸福になることによって与えられる、というものです。これは「最大多数の最大幸福」の原理と呼ばれます。
「最大多数の最大幸福」は、社会全体の利益を追求する考え方です。資本主義の社会では、基本的には個人の利益、幸福を価値だと認めます。しかし、もし本当に個人がそれぞれの幸福だけを追求していたとしたら、そこには必ず競争が生まれ、衝突が起こり、社会全体は幸福とは言えない状態となってしまうでしょう。人間が「社会」という枠組みにおいて生活している限り、よくもわるくも他者との関わりは避けられません。むしろ、個人の利益が他者との衝突をもたらすのなら、まずは社会全体、つまり社会の構成員である人間全体の利益を求めることが、結果的には個人の幸福となる、とベンサムらは考えました。そこで功利主義は、まず社会全体の幸福を追求し、その利益を個人に分配することで、各個人が幸福であるという状態を目指すのです。
3.功利主義の負の側面
先ほどのドン・ジョヴァンニの発言をもう一度見てみましょう。「ひとりだけに忠実な者は/他の女たちに対して酷い」。言い換えれば、「多くの女性たちを愛することで、皆が平等に満足する」ということになるでしょうか。その意味で、ドン・ジョヴァンニの思想は功利主義的です。ただ、彼の場合、それが幸福をもたらすことにはなっていない訳ですから、ここでは「負の功利主義」とでも呼んでおきましょう。
功利主義は、必ずしもいい面ばかりではありません。例えば、功利主義の原理である「最大多数」の幸福の追求は、言い換えれば、少ないながら生まれる不幸を正当化してしまいます。また、利益の分配は社会のもつ法律によって規定されますから、法そのものの妥当性が必ず問われることになります。
ドン・ジョヴァンニの場合、彼が最大多数の女性に、良い印象を等しく分配することができていない点では、彼の中の「法」に当たる部分に問題があるとも言えるかもしれません。いや、そもそも、ドン・ジョヴァンニの場合、多くの者が不幸になるのは目に見えています。だから、彼は言葉では「最大多数の最大幸福」を追求していながら、実のところ「自己利益」だけを求めている点で、功利主義の悪用、「負の功利主義」に陥っているのです。
4.皮肉な結末
さて、功利主義との関連でもう一つ見ておきたいのが、『ドン・ジョヴァンニ』の結末です。石像としてよみがえったドンナ・アンナの父親によって、地獄へと連れていかれてしまったドン・ジョヴァンニ。すべてが終わり、皆が駆けつけた頃には、ドン・ジョヴァンニの姿はありません。悪者の末路を知った皆は大喜び。声をそろえ、高らかに歌い上げます。
これぞ悪をなす者の末路/とあれば悪人の死は/かならずその生き方に似つかわしい!
気持ちは分かります。あれだけひどいことをされた訳ですから、なるほどドン・ジョヴァンニの死は「最大多数の最大幸福」をもたらすものとして、皆に喜ばれているのです。しかしです。先ほど、功利主義の負の側面として、少数の不幸が正当化されると言いました。この結末においては、少数の不幸とは、「ドン・ジョヴァンニの死」に他なりません。彼のしたことは許されるものではないとしても、その死を大喜びするのも違和感があります。それゆえ、ここには、功利主義の負の側面が現れているように思います。
ドン・ジョヴァンニは自己利益を追求した結果、死に至りました。しかし、その死によってもたらされた「最大多数の最大幸福」は、ひとりの男の不幸を正当化してしまいました。このハッピーエンド(?)をどう捉えるか、そこに、私たちが追及する「幸福」とはいったい何であるか、が問われてきます。『ドン・ジョヴァンニ』の原題には、「罰せられた放蕩者」という言葉が加えられています。社会が「罰せられた放蕩者」とどう向き合うか、このことは「幸福」を考える上で決して無視できない問題なのです。
参考文献:
モーツァルト、『ドン・ジョヴァンニ』、小瀬村幸子訳、オペラ対訳ライブラリー(音楽之友社、2003年)。
貫成人、『図解雑学 哲学』(ナツメ社、2020年)。